五の宮ハナ
50歳からの挑戦・主婦エッセイスト
和歌山県すさみ町出身。五十歳の時にカルチャーセンターで文章を学び始めました。身辺雑記を書くなかで、戦前、父親がオーストラリア木曜島で真珠貝採りダイバーとして働いていたことを調べ、現地にも行ってみました。
普通のおばさんが家族の足あとを追うなかで、世界に目を広げるようになりました。
著書
「コッポの咲く村」 平成十四年
「わたしの木曜島」 平成十八年
「タオルの被り方」 平成二十一年
続・わたしの木曜島 木曜島からパラオへ」平成二十九年
受賞エッセー
「タオルの被り方」平成二十年「神戸新聞文芸・エッセー部門」年間賞受賞
「味噌便り」平成二十二年「NHKラジオ深夜便 こころのエッセー」入選


メッセージ
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内容紹介
子どもの頃、父が私に、
「モクヨトーに行っていた」と話してくれた。「海に潜った」「裸馬に乗った」とも。父は六十歳で亡くなり、話を聞く間も無かった。
モクヨトーはどこなのか。そこで何をしていたのか。押し入れに入っている革のトランクと木製の香港箱には、何を入れていたのか。司馬遼太郎の「木曜島の夜会」と関係があるのだろうか。
昭和十年に発行されたパスポートが見つかった。着物姿の父の写真があり、二十一歳となっている。一月十七日に神戸での押印のあとは、昭和十四年、香港での押印があるだけだ。
彼はどこで下船したのか。神戸を出て香港で押印するまで、どこで何をしていたのか。謎だらけである。
疑問を解決しようと串本の元ダイバー達に聞きに行った。飽き足らず、とうとうオーストラリアへ飛んだ。父の足跡を探して千キロの旅をした。多くの人に出会い、教えてもらった。オーストラリアの大地は広大であり、父の歴史は世界の歴史であった。
エッセー「味噌便り」
「二〇一〇・三月四日午前一時放送・NHK・ラジオ深夜便 」
「ピン ポーン」
それっ、宅配便がきた。昨日電話で知らせがあった母からのお味噌が届いたのだ。これは夏になると我が家に届く定期便である。段ボールの箱に丸い樽が収まっていて、ずっしり重い。今年も二十キロはあるだろう。
蓋を開けるとプーンと糀の匂いが鼻をくすぐり、アメ色の味噌が光っている。これは大豆、麦に糀を合わせた田舎味噌だ。
春はアサリ、夏はナス、秋はキノコと季節の物を実に入れる。海辺の村でできたせいか魚介類の具がよくあうように思う。
八十五歳になる母は漁師の妻として長年家を守ってきた。夫の漁を手助けし、六人の子どもを育てあげた。
母はいつも忙しくしていた。趣味を持つというようなこともなく、ただ働くことだけを生き甲斐としていた。
だが彼女がただ一つ夢中になるものがあった。味噌作りだ。梅雨開けころになると、毎朝三時に起きて大豆を蒸す。
豆をミキサーで砕いて麦と混ぜる。塩と糀を入れて木の箱に寝かせる。あとは夏の暑さが発酵を進めるのだ。家中に豆を蒸す匂いと糀のカビくさいような香りが充満し、蒸し暑さが倍増される。
台所は昔ながらの通り庭のある古い作りだ。彼女はざらざらとゾウリの音をさせながら、かまどと座敷の間を行ったり来たりする。あの小さい体のどこにそんなエネルギーがあるのかと不思議だ。
その作る量は半端ではない。私達子どもや親戚それぞれに樽詰めを送るのだ。その仕込みのために彼女は約一か月間かかりきりになる。
昨年、お盆の墓参りに帰った時のことだった。母がポツポツと話し始めた。
「アシ(わたし)には兄さんがおってなぁ。戦争で死んだんや。早くにお父さんが亡くなって、お母さんは外で働くし、いつも兄さんと二人で遊んだり、留守番をしたりしたもんや。やさしい兄さんやったんやで」
その兄さんが戦死したという知らせが来たそうだ。南方のジャングルで死んだらしい。知らせが届いた夜は、
「そっちの海に向かって一晩中泣いたよ」と語るのだった。
わたしはがーんと頭を殴られたような衝撃を受けた。母のしょぼしょぼの目に小さな涙が見えた気がした。
「それでなぁ。兵隊さんのお金がもらえるようになってん。その年金でお味噌をつくるんや」
そうだったのか。知らなかった。母にそんな兄弟がいたことも、辛い歴史を背負っていたことも初めて聞くことだ。ただお味噌をもらって食べ「ご馳走さん」と言って、空になった樽を送り返すだけであった。自分の無知を恥じいるばかりだった。
母はお人良しだ。誰から頼まれてもいやとは言わず、ハイハイと願いを叶えてやるのだった。そんな彼女だから兄さんの命と引き替えにもらったお金を、自分一人だけで使うのは悪いと思ったにちがいない。
だから皆が食べるお味噌にしたのだろうか。私は母はなぜあのように味噌を多量に造るのだろうと疑問に思っていたが、やっと謎が解けたのだった。
私は今朝もみそ汁を炊く。もう秋だから里芋をいれた。ふつふつと湯気があがり温かい汁になった。主婦にとって毎日十分に使えるものがあるということは、何とありがたいことか。
おじさんの命が私達の体に入っていく。母の慈悲が胃袋に浸透する。そんなお味噌に背中を押してもらって私は毎日、元気に暮らしている。胸を張って生きている。
第四回「ラジオ深夜便 こころのエッセー」入選
